【島津斉彬】と【篤姫】:幕末の薩摩藩主と徳川家の守護者

島津斉彬・篤姫 江戸時代
島津斉彬・篤姫

生い立ちと背景

島津斉彬(しまづ なりあきら)は1809年4月28日に江戸の薩摩藩邸で生まれました。父は島津斉興、母は弥姫(池田治道の娘)です。幼少期から洋学に興味を持ち、蘭癖大名として知られる曽祖父・島津重豪の影響を受けました。

藩主としての業績

斉彬は1851年に藩主となり、薩摩藩の近代化を推進しました。彼は富国強兵を目指し、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興しました。また、日本初の国産蒸気船「雲行丸」を建造し、洋式帆船「いろは丸」も完成させました。

幕政への関与

斉彬は幕政にも積極的に関与し、老中・阿部正弘とともに幕政改革を訴えました。特に黒船来航以降、公武合体・武備開国を主張し、幕府の近代化を推進しました。

最期と影響

1858年8月24日、斉彬は急死しました。死因はコレラとされていますが、その急な死は陰謀説も囁かれました。彼の死後も、斉彬が育てた西郷隆盛や大久保利通などの人材が明治維新に大きな影響を与えました。

人物像と逸話

斉彬は日本人で初めて写真撮影に成功した人物としても知られています。また、彼はルイヴィトンのカバンを初めて持った日本人とも言われています。斉彬はその多面的な性格と行動によって、薩摩藩の近代化と日本の歴史に大きな影響を与えた人物です。

島津斉彬と篤姫の絆

家族関係

篤姫(本名:於一)は、薩摩藩の分家である今和泉島津家の出身で、島津忠剛の娘として1836年に生まれました。島津斉彬とは従兄弟の関係にあり、斉彬の祖父である島津斉宣が共通の祖父です。

養女としての関係

1853年、篤姫は島津斉彬の養女となり、斉彬の意向で徳川家定の正室(御台所)として江戸幕府に嫁ぐことになりました。これは、斉彬が幕府内での影響力を強めるための戦略の一環でした。

政治的な背景

斉彬は、幕末の動乱期において幕府の改革を推進しようとしていました。そのため、篤姫を将軍家に送り込むことで、幕府内での発言力を高め、一橋慶喜を次期将軍に推す計画を立てていました。篤姫もその意図を理解し、斉彬の意向に沿って行動しました。

篤姫の役割

篤姫は、徳川家定の正室として幕府内で重要な役割を果たしました。彼女は聡明で気丈な女性であり、斉彬の意向を受けて幕府内での政治的な動きに積極的に関与しました。しかし、家定の死後、斉彬も急死し、篤姫の役割は一旦終了しました。

その後の篤姫

斉彬の死後も、篤姫は徳川家の一員としての立場を貫き、江戸幕府の瓦解時には江戸無血開城に尽力しました。彼女の行動は、幕末から明治維新にかけての日本の歴史に大きな影響を与えました。

島津斉彬と西郷隆盛の関係

出会いと登用

西郷隆盛は薩摩藩の下級武士として生まれましたが、島津斉彬にその才能を見出されました。斉彬は藩主として広く家臣に意見を求めており、西郷の提出した建白書に注目しました。その後、西郷は斉彬の側近として登用され、様々な重要な任務を任されるようになりました。

教育と影響

斉彬は西郷を教育し、当時の著名な知識人たちと引き合わせることで、西郷の見識を広めました。斉彬は西郷の潜在的な能力や胆力を評価し、彼を近くに置いて意見を交換することを重視しました。

政治的な役割

斉彬は幕末の動乱期において幕府の改革を推進しようとしており、西郷もその一環として重要な役割を果たしました。特に篤姫の輿入れの準備や、幕府内での政治工作に奔走しました。

別れと影響

1858年に斉彬が急死すると、西郷は深い悲しみを抱きました。斉彬の死後も、西郷はその教えを胸に、明治維新に向けた活動を続けました。斉彬の影響は、西郷の行動や思想に大きな影響を与え続けました。

島津斉彬の死因

島津斉彬の死因については、一般的にはコレラとされています。1858年8月24日、鹿児島城下での練兵の様子を見学していた際に発病し、その後急速に容体が悪化して亡くなりました。しかし、その急な死は陰謀説も囁かれ、暗殺されたのではないかという説も存在します。例えば、当時の医師が斉彬の状態を「心臓の異常な衰弱」と記しており、これは毒物を摂取した際にも見られる症状だとされています。

島津斉彬の性格

島津斉彬は非常に多面的な人物で、その性格には様々な側面があります。

賢明で開明的

斉彬は聡明で開明的な人物として知られています。彼は西洋の学問や技術に強い関心を持ち、薩摩藩の近代化を推進しました。また、彼は日本人で初めて写真撮影に成功した人物としても知られています。

大胆で革新的

斉彬は大胆で革新的なリーダーでした。彼は藩の財政を立て直すために様々な改革を行い、集成館事業を通じて洋式造船や反射炉の建設などを推進しました。

強い意志と決断力

斉彬は強い意志と決断力を持っていました。彼は幕末の動乱期において幕府の改革を推進し、篤姫を将軍家に送り込むなどの政治的な戦略を実行しました。

裏の性格

一方で、斉彬には裏の性格もありました。例えば、藩主になるために内部情報を幕府にリークしたり、贋金を作るために寺院を打ち壊したりするなどの行動も取っていました。

島津斉彬と島津久光の関係

家族関係と背景

島津斉彬は、薩摩藩第10代藩主・島津斉興の長男として1809年に生まれました。一方、島津久光は斉興の側室であるお由羅の方の子として1817年に生まれました。このため、斉彬と久光は異母兄弟の関係にあります。

お由羅騒動

斉彬と久光の関係は、お由羅騒動(嘉永朋党事件)によって複雑化しました。斉興はお由羅の方を寵愛し、その子である久光を後継者にしようと画策しました。これに対し、斉彬派の武士たちは反発し、お由羅の方を襲撃しようとしましたが未遂に終わり、多くの斉彬派の武士が粛清されました。この事件は、斉彬と久光の関係に緊張をもたらしました。

藩主としての斉彬と久光の役割

1851年に斉彬が薩摩藩第11代藩主となり、藩の近代化を推進しました。しかし、1858年に斉彬が急死すると、久光の子である島津忠義が第12代藩主となり、久光が後見人として実権を握りました。久光は「国父」と称され、公武合体運動の中心的な存在となりました。

兄弟の関係

斉彬と久光の関係は、必ずしも悪くはなかったとも言われています。斉彬は弟である久光の能力を評価しており、久光も兄である斉彬を尊敬していました。斉彬が亡くなった後、久光は斉彬の遺志を継ぎ、公武合体を推進しようとしました。

まとめ

島津斉彬と島津久光の関係は、家族内の権力争いや政治的な背景によって複雑化しましたが、互いに評価し合う面もありました。彼らの関係は、幕末から明治維新にかけての日本の歴史に大きな影響を与えました。

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